多くの知識、それも深くかつ広く持つことは賢いことの大きい要素である。しかし、それが出来ていても人間関係が良くなければ周囲の人と孤立して変人と言われることになる。人間関係をうまく処理する人が賢い人である。

 人間関係とは身近な家族、上司、同僚、部下や近所の人と沢山居るし、しかも近頃は国際的になどと言われるから、全部の人間関係を良くすることは難しく、不可能とも思われる。そう言ってしまえば、お仕舞いだから何とか考えてみよう。

 根本哲学として、人はそれぞれ考えが違うということを認識しなければならない。私がよく言う言葉だが、テーブルにコップを置くにしても、人によって適当と思う場所の考えが違うのである。他人の裁決の範囲のことには口を出さないことがよい。自分の考えを他人に押し付けようとしてはならない。

 この流儀では、他人ばかりを立てるように思われるかも知れないが、そうではなく、自分の領分は守りつつ他人の領分は認めるのだから自分の自主性は守られる。そしてこの方法によれば、つまらない事について他人と争うことがない。

 自分の領分も、他人の領分も尊重するのだから、二元的にならざるを得ない。譲り合って両方ともに損を分け合うのである。

 一元的哲学、すなわち自分の方が正しいと思い相手の説を認めない場合には結局、殺し合いの戦争になる。今現在も世界で戦争が起こっている。日本の「和」の精神は、二元両立である。両立は不可能のようではあるが、日本ではこれが実行されたのである。神道と仏教の争いは歴史の底に隠されているが、お寺に鳥居が立ったり、出産は氏神様に、葬式はお寺にと住み分けた。

 マルクス主義と資本主義とは欲望を否認するのと肯定するのとの差は大きくて両立の見込みはない。

 しかし、現実の日本は欲望を価値として認めている資本主義の中の生活である。大きい差異はない。両立どころか数件の連立も可能である。

 資本主義打倒を叫んでいた社会党や労働組合も、今では妥協の建設的運用に改宗してい。

 私は昔、調停裁判所の調停委員を委嘱されたことがある。事件は民事の解決である。紛争が本裁判でも解決がつかないので調停に回ってくる場合もある。調停ではお互いの言い分があって、それが解決しないのだから理由は訊かない。理屈を言えば切りがない。

 解決は結局金額にしぼる。Aはいくら欲しいのかと訊き、今度はBにいくらなら出せるかと訊く。これを往復して結局、中をとって、いくらの金額として解決する。このほかに方法がないのだ。これに従わない時は調停は取りやめとなる。

 この和の精神すなわち両立論に立てば、つまらない問題でわずらわされることはない。

 世の中のことも大抵、矛盾する複数の要素がある。美味くて安い物とか、家を丈夫で綺麗で安く建てたい。すなわち安い事と良い事は矛盾であり、両立しない。そこで両方の中をとって適当な家を建てる。誰でも、この原理を実行している賢明な人々である。

 ただ、人間関係においては機械的両立でなく、そこに精神の愛情が必要である。愛情が在って、すなわち相手の立場を尊重するという精神が在ってこそ円満が得られるのである。


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